尾高ちゃんのブルックナー9番2015年06月13日





藝大定期第370回 藝大フィルハーモニア定期演奏会

2015年6月13日(土)
尾高 忠明+藝大フィルハーモニア@東京藝術大学奏楽堂

尾高 尚忠:第一交響曲
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ブルックナー:交響曲第9番(2000年コールス校訂版)


今日の東京は朝から夏のように暑かった。
この頃、休日の午前中は川縁を2~3時間歩くことにしているけど、今日はその午前中だけで1リットルの天然水を購入。
どのコンビニの天然水が美味くてどこが不味いか、だいたい分かってきた。
それにしても疲れた…

若干重い足取りで上野駅に到着。
公園口の改札を出ると真夏のような日差し。
思わず公園の売店で缶ビールを購入。
美味い!


今日の演目にかける尾高ちゃんの意気込みは次のとおり
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未完のシンフォニー
それが、父、尾高尚忠(1911~51)の最後の日本交響楽団(現NHK交響楽団)との定期演奏会だった。
1950年(昭和25年)12月14・15日、日比谷公会堂。
父がウィーン留学時代から振りたくてしょうがなかった「ブルックナーの9番」。
事務局はその頃、無名に近かったブルックナー(1824~96)の、それも題名付きの「ロマンティック」ではなく、9番を申し出る父にたびたび「No!」と返事をしていたが、最後に了承してくれた。
演奏会当日、妻の節子(僕の母)は、舞台袖で聴いていた。
ブルックナーが終わった時、聴衆の反応は鈍かった。
でも、父は涙を浮かべながら帰ってきて、「ブルックナー小父さん、(天国に行けて)良かったね!」とつぶやいた。
この頃、父は激しい頭痛に悩まされ続けていた。
父の最初で最後の《第一交響曲》は、このような体調のなかで書かれている。
ブルックナーは、《交響曲9番》のあと、4楽章を手がけながら完成することなく死を迎え、今はザンクト・フローリアンの修道院のオルガンの下に眠っている。
父は1951年(昭和26年)1月の名古屋公演以降、病状が悪化し、2月16日に亡くなった。
《第一交響曲》は2楽章までできあがっている。
しかし、その2楽章の最後には「attacca(切れ目なく次へ)」の文字。
父も3楽章を、いやもしかしたら4楽章まで構想があったのかも知れない。
でも、ブルックナーの3楽章は「死のコラール」を持つが、父の2楽章は「湘南の海を懐かしむ歌」だ。
僕は双方共に、作曲家の「白鳥の歌」だと思う。
二人の作曲家が、天国で聴いてくれていると信じつつ。
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思い入れたっぷりのコンサートなんですね。


本日のアフタートークでは、「もうすぐ70歳になるけど、まだ50回も振ってない」とも仰っていて、その思い入れが尋常ならざることが痛いほど分かりました。
思い起こせば1970年代。
僕ら中高生にとっては気軽にコンサートに行ける訳もなく、頼みの綱はテレビ。
そのテレビで良く活躍されていた人と言えば、尾高ちゃんと山本直純氏。
ホント、お世話になりました。
その尾高ちゃんが振るブルックナーの9番。
「生」尾高ちゃんは今まで何回か聴いたことがあるけど、果たして今回は…


…尾高ちゃんの指揮は、良い意味で俗っぽく、アクも出て来て、いままでのあっさり路線からの変化が感じられました。
あっさり塩味ラーメンが、醤油ラーメンに変わってきたとでも言えば当たらずとも遠からず?
インテンポ過ぎず、アゴーギクが控えめなのは従来どおりだけど…
いや~、好きだなぁこう言うブル9。

オケではコントラバスが秀逸。
配布されたプログラムによると、8名のうち4名は賛助出演となっている。
OBさんなんだろうか?
いやはや、藝大フィルハーモニアのコントラバス。
彼らが奏でると、オケの音色に一気に厚みが増してきて、質感もより上質になって行く…
今までコントラバスについてはあまり注意を払っていなかったけど、気にすることにします。

今回のコンサート。
常々「死ぬ間際に聴きたい曲を1曲だけ選べるとしたらブルックナーの9番」と思っている自分としては、とても感極まるものがありました。
フライングの拍手があったことが唯一残念ではあったけど。

追記:ブル9の日本初演は東京音楽学校管弦学部、今の藝大フィルハーモニアなり!

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